This so adorable...

日々起きること。

香りを食べた。

結構私は頑固者で、意外に好き勝手を言っているのだと気づいた今日この頃です。

 

 

 

 

私は、アジアの国に行ったことがありません。

 

日本というアジアの国にいながら、 

日本以外のアジアは、単なる飛行機の乗り継ぎしか経験がありません。

私は実のところ不思議とアジアに行きたいと、思っていないのです。

 

なぜかというと、

おそらく衛生面と、食べ物について良い印象を持っていないことが理由だと思います。

私の中の偏見なんですが、本当偏見なんです、分かってはいるのですが、

不安なのです。

不安なのですよね〜。

 

あと大学生時代にナンプラーとスイートチリソースを買い、アジア料理を作ろうとしたことがあります。

だけど、その調味料が口に合わなくて。

なんというのでしょう、一口にいろいろな味がしたのです。

 

以来、一度もアジア料理に挑戦したことがありませんでした。

 

 

そんな私が、今日はぽにょさんとベトナム料理を食べました。

この年齢になって、初めてベトナム料理を食べました 笑

 

きっかけは、ぽにょさんが職場の女子たちとよく行くお店だと教えてくれたからです。

ぽにょさんが普段食べている食べ物が気になりました。

 

お店に入ると、

 

「ん?」

 

何だか、いままで嗅いだことのない不思議な甘い刺激的な香りがしました。

そして料理が運ばれてくると、一気にいろいろな香りが。 

食べて驚きました。

一口で、いろいろな香りが鼻に抜けるのです。

いったいどれが、なんの香りかわからない。

食べた瞬間は、素朴な鶏がらスープの味。

だけど噛んでいる間に、口から鼻にさまざまな香りが、、、

最後は、心がいっぱいでした。

 

心がいっぱい、という表現から想像がつくように、

見事にノックダウンだった私。

 

食べ慣れってあるなぁ、好き嫌いが私にもあるなぁ、と痛しました。

 

 

そして帰りの新幹線では、山椒の実がふんだんに使われたお弁当を選んでしまった私。

食べていると、山椒の香りが鼻を抜ける。

きっと食べ慣れていない外国人は、この香りがさぞかし苦手ではないだろうか。

 

 

 

 

********

 

 

 

ここまで書くのに、えらい日数を消費してしまいました。

うまく書きたいことがまとまりません。

まだまとまっていませんが、何となくあげてみます。

時間がたっても、これはまとまらないな。

いろいろと思考が飛んで、散らばって、着地確認ができていない感じです。

 

ん~。

最近、研修で自己分析みたいなことを行い、自分がわからなくなってしまいました。

「こうだ」

と思っていた自分が、「ちがった」形となり、認めることができません。

 

それが良くも悪くもないのになぜ認めることができないのか、

いま考えているところです。

心は澄み渡っているか。

思いを、秤にかけることがある。

 

どっちらかを選択するためだけど、

秤にかけるということは、思いは複数あるということ。

さて、なぜ複数も思いが生まれるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

込み上げる、物がある。

 

その時は、思いはひとつ。

 

 

 

何にも勝る勢い。

その時の心は、澄み渡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何でもちょこっとずつ。

「好きな曲はめっちゃハマって、何度もリピートで聞くんです。でもしばらくしたら嫌いになって、聞くのさえ嫌になります」

 

この話を聞いて、周りの人たちは、

 

そうだよね~

 

と、あるある的返事を返していましたが、私には少し違ったとらえ方があるので、

へぇ~

という感じで、聞いていました。

 

 

私も、好きな曲は繰り返し聞きます。

例えば、椎名林檎の「愛妻家の朝食」という曲。

車で曲のリピートにしていたのですが、3か月くらいはこの曲にしていました。

通勤時間は、行きかえり2時間くらいかかるので、4分の曲を120分聞くと1回の通勤で30回聞くことになります。

それが30回×約20日/月の出勤×3か月で1800回は聞いていたのでしょう。

でも、正直嫌いになった思いは全くありません。

今でも好きですし、愛すべき曲です。

 

 

曲を聞かなくなった瞬間を、人は「飽きた」ととらえますが、

自分は思うに、違う興味に移っただけのことだと思っています。

なので、好きなものを嫌いになる理由がよくわからないのです。

嫌いになる人は、対象に対して何かを求めすぎなのではないでしょうか。

 

 

人の思いもそう。

相手に期待しすぎていると、違う反応が起こった時に動揺しますよね。

不安だったり、怒りだったり、憎悪が増す場合が多いです。

 

でも、相手はどうなのでしょう。

何かを選んだのでしょうか?

選んでないですし、期待なんて何も知らないですよね。

期待を並べたのは相手ではなく、投げかけた側なのだから。

 

 

 

 

 

 

最近、毎日のようにwordpressを触っています。

ぽにょさんに出会ったときに、私は彼女のHPをhtmlタグで作成をしました。

HPというのは、htmlなどのHPを作るための様々な言語を組み合わせることで成り立っています。

線を引くには、線を引くタグを。

文字のサイズを変えるなら、変えるタグを使用します。

このブログも、htmlなどのインターネット言語の組み合わせでできています。

 

最初htmlを始めた時はほんの興味程度でしたが、数年たつとページ数は70ページを超え、

更新が大変面倒なことになりました。

また、見た目もスマホに対応していないので、ちょっと文字の見え方も小さかったのです(全体が一望できて、私は気に入ってましたが)。

 

で、ぽにょさんに勉強するように言われたのがwordpressです。

wordpressとは、このはてなブログのように、デザインを選んで、記事更新する仕組みのことですが、

私はネットの専門家ではないので、この勉強が大変で大変で。

毎日ちょこちょこして、なんとか今はセキュリティ対策に取り組んでいるところです。

 

 

そしてそこで、恐ろしいことに気が付いたのですが、、、

wordpressにセキュリティ対策に、誰がいつアクセスしたかという内容がわかる仕組みを導入したのです。

すると、なんとチャイナからの不正アクセス数が半端なく多い。

30秒から1分ごとにアクセスしてきているんです 笑

幸いにも、今は無きURL宛のアクセスですが、「知らぬは仏」という言葉を思い出しました。

こんなに脅威にさらされていたなんて、驚きです。

ま、彼らも「乗っ取りのお仕事」の先に何かを期待して実行しているのでしょうけれども、

私の期待とは違うことは、間違いないと思います。

 

 

なんでもない、普通の研修だったのに。

躁と鬱は、病気の人でなくても、似た形の感情の浮き沈みはあるのだろう。

今の私がきっとそうだ。

こうやって、立て続けにブログを更新するなんて、何かどこかがいつもより活発なのだろう。

実のところ、ブログの下書きはたくさんある。

投稿している記事の、倍はある。

 

それだけ、私の思いは普段はまとまりにくい。

 

 

 

 

 

 

最近は研修に参加するのが仕事のようなもので。

専門分野ではなく倫理的な話を90分聞くとなると、とても新鮮です。

 

 

その研修で、

 

 

「チラシをみて、気づいたことを言ってみて」

 

 

と講師が言いました。

そのチラシは何かというと、

まちづくりのヒントとなる教材で、住みやすい街を作るために建築や道路、また人権に関する絵が描かれていました。

例えば高い段差、身障者マーク、虐待、詐欺など、街の中で問題になりそうなテーマが数百個、可愛いイラストで描かれています。

 

この研修の受講者は200人の私と同年齢の男女。

強制的に、この年齢になると受けなければならない研修です。

 

 

講師に発言を当てられた人は、気づいた絵のイラスト部分の説明と、何が問題で、どう改善したいかを言います。

ただ、一見イラストの中心にありながら、誰も触れない絵が。。。

 

 

講師が、

「誰も触れないけど、」

と前置きをした上で、その目立つ絵をさしました。

その絵は女性同士、男性同士の結婚式の絵です。

 

 

 

LGBT、聞いたことがありますか?」

 

その問いに、なぜか会場がその日一番の静まりをみせました。

と同時に、私は、この静まりに緊張しました。

 

 

「エル、レズ。ジー、ゲイ。」

 

 

講師が説明をはじめた。

レズ、、、笑

 

ビアンをつけないのかい!って、心の中で突っ込む私。

LGBTとは関係無縁のような研修で、まさかのLGBTの話。

降って沸いた話に、私の心は動揺していました。

動いてはだめだ、じっとして、この場に馴染まなければ。

私は手に汗を握っていました。

 

 

講師は、ずっと話していました。

 

「僕が思うに、LGBTの人たちが抱えている大きな問題はカミングアウトだと思う。けど、この数年様々な政治的な動きがあり、認知が広がった。これからは彼らを受け入れる風土を作っていかなければならない。「私には関係ない」、もちろん世の中にはそう言う人もいます。だけど、じゃぁあなたの職場には絶対にこういう人はこないのですか?絶対にこないなんて、言い切れませんよね?もし来た時に対応が不適切で、知りませんでしたって言えますか?言えませんよ。そんな職場や町の信用を失う行為は許されません」

 

 

なるほど、世の中の、しかも分野違いの世界ではこう説明をするのかと、ちょっと聞き入ってしまいました。

 

 

「もし、家族や親しい友人がLGBTだったら?LGBTという人がいることは自然なことだと、みんなで知っておきたいね」

 

 

 

講師の彼は一般の人だと思います が、

こう、考えて、堂々と発言できる人がいたことが、私は当事者としてとても嬉しかったです。

素直に感動しました。 

欲を言えば

 

「この受講生の中にも、LGBTの人がいるかもしれない」

 

そう言ってもらいたかったと、私は思いました。

もちろん言われると、矢面に立って嫌な人が出ることを懸念したんだろうけど、

でも私は聴取にとって、ぐっと身近な話題になるから、良いのでは?とも思ったり。

 

そのように私が思ったのは、この時の私がちょっとした安心を感じたからだと思う。

彼になら、言われても大丈夫だという安心感を。

 

 

 

LGBTだとカミングアウトするのが平気な人や、私みたいに公衆の面前で聞くだけでドキドキする人間もいる。

どちらがいいのか、楽なのか、わからないけれども、

私は、ドキドキする人間でいたいと思う。

それは、やっぱり痛みがわかるからかな。

 

 

 

 

平気だよ、慣れてしまった、もちろんそんな人はそれでいいと思う。

でも私は、今はまだドキドキおびえていたいし、隠れていたいかな。

 

 

 

 

ワクワク感。

海外に住む人のブログに、現地語の語学学校に行くことになった記事が書かれていた。

 

本人は不安でいっぱいみたいだったけど、

私はその記事を見て、見たことのない世界にワクワクした。

 

 

不安と、ワクワクの違いは何なのだろう。

同じ、感情、なのに、

まるで対極の味がする。

 

 

最近、私は自分にワクワクしているのか?

 

家で食べるご飯の味。

家でご飯を食べるのが辛い、そう感じ始めたのは一体いつごろからだろうか。

 

大概の人は家でご飯を食べることは、落ち着きだと思います。

だけれども私にとって、実家でご飯を食べるのことは、別。

落ち着きではなくて、何かしら焦りや不安や、居心地の悪ささえ感じているのが、今の食事なのです。

 

目の前に家族がいると、ものすごく早く食事をして、一刻も早くその場から立ち去りたくなる。

あの日の食事もそうだった。

 

私にはいくつか好きな食べ物があって、

中でも簡単に作ることができる冷凍うどんは好きな食べ物。

数か月に1度、帰りがとても遅くなった時にはその冷凍うどんを作って、ゆっくり食べるのが好きなのだ。

楽しみで、作る段階から少し顔がにやけてしまうし、

ねぎを切っているときなんて、鼻歌を歌っていたくらいご機嫌だった。

けれども、食べているときにその日は母親が目の前にいて、従妹の結婚式の話をしてきたのだ。

 

私は正直、興味がない。

誰と結婚しようが、幸せな人生を送ってほしい。

そして従妹であろうが、他人であろうが、職場の人であろうが、誰がいつどこの方と結婚しようが、さほど興味がない。

全ての人に、幸せに過ごしてもらいたい。

 

だから、母がする世間話的な内容は興味がない。

 

だから黙っていると、また私に結婚しろと話を出してきた。

いい人を見つけろと。

 

そういわれて、私は、

「前も言ったでしょ?」

とカミングアウトの話を再度持ってきた。

 

あーだ、こーだ、母と言っている間に、

大好きな冷凍うどんの味は、まるっきりわからなくなった。

駆け込むように、食べて。

もぐもぐしながら、話がひと段落つくのを待つ。

逃げるのは、良くないと思ったから。

 

ひと段落ついて、自分の部屋にもだった時には、

口の奥に、なんだか胃酸がたまっているような、ちょっと酸っぱい味がして、

お腹も張っているようだったし、何より、胸も、いっぱいで、気分が悪かった。 

 

 

 

もちろん、全て自分が選んで、歩んできた人生なのだけれども、

なぜこんなことになってしまったのだろうと、時々悲観的に思う。

こう、落ち着く時がない感じが、残念で、無力感。

そのことを食事のたびに考えるからか、

最近家で食べるご飯の味は、胃酸の味なのです。

誰が、目の前にいても。

 

家では一人で食べる食事が、一番落ち着きます。

 

 

ぽにょさんと食事をしているときは、とっても幸せなのです。

二人でニコニコしながら食べていて、本当は実家でもそういう食べ方ができるのではないのかと思うのですが、

私の心が、それはできないようなのです。

 

一体、私はここでどう家族に接していけばいいのだろう。

 

 

結構致命的な悩みだと自分では思っていたりします。

次に見える世界は。

私がぽにょさんの作品を自分の部屋に飾ったのは、2016年のことだった。

 

ぽにょさんの作品は元来飾るものなんだけど、

日本の普通の家庭ではあまりこういう品を部屋に飾る習慣がなくて、

だってサイズも縦横ともに50cm以上するし。

 

部屋の中に相当なスペースがないと飾れない。

まして、その作品の系統からして、なかなか和の家庭には飾らない。

飾らないと私も思うからか、日本ではコアな人でないと見向きもされない。

だけどそれが海外に行くと違って、やはり飾る習慣があるし、その趣向に主流があるから見られ方も違っていた。

 

そのことを私も知っていたから、

じゃぁ試しに自分の部屋に飾ってみて、海外の人たちの感覚を体感してみることにしたのが去年の話。

何もなかった部屋のある場所に、

 

ぽん

 

とそれを置いた。

部屋が、ザワっとした。

色は馴染んでいるけど、部屋に今までなかったエッセンスが入った。

何か、作品ももぞもぞ居場所を探している気がしたし、

部屋も驚いた気配がした。

 

その作品がある部屋を見た家族は誰もがサイズ感と内容に驚いていたし、

私も部屋に入るたびに視線を奪われていたけど、

1年経ったら、もぉすっかり作品は部屋の一部となって、

置いていることが普通になった。

作品も静かにその場所で眠っているのかじっとしている。

 

 

....。

 

いま見つめて見たけど、本当馴染んでる気がする。

 

 

 

 

今回、ぽにょさんの作品が雑誌に載ることとなった。

私はその雑誌の中を見たことがない。

だけど雑誌の名前だけは知っていて、

とあるデザイン事務所の専門書籍スペースに並んでいた1冊だった。

背表紙が近年のファッション誌を想像させるデザインで、

その雑誌の数々が後ろのデスクにも誰ががさっきまで見ていたのだろう、

無造作に数冊置かれていたのを見た。

 

私はその雑誌を最後まで手に取らなかった。

理由は縁がないと思ったから。

そういうハイセンス的な雰囲気とぽにょさんは縁がないと思ったからだ。

 

だからその雑誌への掲載の話が来たとぽにょさんに聞いた時には驚いた。

掲載構成の見本を見ても、雑誌の表紙のデザインとは、かなりイメージが違う 笑

中身を見たことの無い私は大丈夫かなぁとも気にするのだが、

向こうが大丈夫ならいいのかな。

こちらとしては、夢のような話で本当にありがたいことです。

本の雑誌には、初めて載るのだから。

 

 

雑誌に載るに当たって、私には少し不安がある。

 

 

 

さて、これから劇的な変化が私達の人生に起こるのだろうか。

 

 

 

劇的な、とは、

ぽにょさんがえらく評価されて有名になったり、また反してめっちゃ叩かれて批判されたりってこと。

今は平穏にこっそりコツコツ活動してきてるけど、

急にスポットライトが当たるのかとか。

またそれが、結果的に何が良くて、何が悪いのかがわからないからまた問題で、

何も起こらなければ、それはそれで不安な私もいる。

どうしたら、次の世界に行けるのか考えなきゃいけないから。

 

 

 

今私は、見えない未来に不安を感じている。

もちろんワクワクもしてる😊

だって話が来たときは手を叩いて喜んだし、本当に光栄だと思った。

だけど。

だけど今までみたいに特定の世界で湧く話ではなく、

今回は範囲が広く、まして構成から期間がある程度あると、

いろいろと考えてしまう。

色ができ、文章ができ。

調整を重ねて、いよいよ、その時がこようとしている。

 

 

 

 

次に見える世界は、あるのだろうか。

何が見えるのだろう。